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第三代館長:久保 勇

三代館長:久保勇

柳生神影流第十一世
剣道七段範士
銃剣道八段範士
久武館道場第三代館長 久保 勇
(明治41年10月28日~平成2年4月8日)

 

徳島県阿波郡市場町の何代も続く豪農 松村総吉、リツノの三男として生まれる。

幼少より力持ちという評判が絶えず、学校を卒業する頃には近隣に鳴り響いていたという。

当初は、旧大日本帝国陸軍の地方部に属していたが、噂を聞いた旧帝国陸軍上層部から近衛兵へ推挙され近衛師団に入隊する。

※近衛師団(このえしだん、旧字体:近衞師團)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。

一般の師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊組織として天皇と皇居を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にあたった。

他の一般師団と異なり、禁闕守護の任から衛戍地こそ東京なものの、連隊区といった特定地域からの徴兵によるのではなく全国から選抜された兵によって充足されており、近衛兵になることは大変な名誉であった。

近衛師団在職中の写真

近衛師団在職中の写真1
近衛師団在職中の写真2
近衛師団在職中の写真3
近衛師団在職中の写真4

青春時代を近衛師団の厳しい訓練に費やし、銃剣道では近衛師団一位(中隊・大隊・連隊でそれぞれ優勝を飾る)という実績を残す。

当時、大日本武徳会の要請で皇居の近衛兵の剣術指導に当たっていた久武館道場第二代館長 久保義八郎の目にとまり剣術指導を受けることになります。

当時は、近衛師団内での銃剣道と剣術の練習を掛け持ちし休む暇無く練習に励んだそうです。

その結果、銃剣道と剣道の達人となり、久保義八郎の長女を娶り徳島に帰郷し久武館道場第三代館長となります。

徳島に帰郷後は、初代館長 久保利雄と久武館道場を切り盛りしながら、自らも旧制麻植中(現在の徳島県立川島高等学校)の武道教授として勤務します。

第三代館長 久保勇の銃剣道の腕は有名で、当時は久武館道場も曜日を分けて剣道と銃剣道を教える日々が続いていました。

徳島に帰郷した際に初代館長久保利雄はじめ家族や関係者と撮影

久保利雄はじめ家族や関係者

当時のまま残る剣道と銃剣道の門下生名簿(左側剣道 右側銃剣道)

名簿剣道
名簿銃剣道

旧制麻植中(現在の徳島県立川島高等学校)武道教授時代の写真

旧制麻植中武道教授1
旧制麻植中武道教授2
旧制麻植中武道教授3
旧制麻植中武道教授4

※当時の教え子には、元徳島県知事の三木申三氏も名を連ねておりました。

昭和14年には、再び近衛師団へ出征し銃剣道教授として従軍します。

近衛師団出征時の写真

近衛師団出征時1
近衛師団出征時2
近衛師団出征時3
近衛師団出征時4

近衛師団出征時5

※この時は久武館道場に出征を祝い多くの人が集まりました。

昭和18年5月吉日には、徳島に帰郷を機に久保義八郎より当家に伝わる柳生神影流の正統な後継者として認められ、晴れて柳生神影流第十一世を名乗ることを許されます。

柳生神影流第十世 久保義八郎が久武館道場 第三代館長 久保勇を正統な後継者として認め発行した柳生神影流免許巻

免許皆伝を許された目録

久保義八郎と久保勇の連署で門下生へ発行した柳生神影流免許巻

免許皆伝した目録

※久保義八郎が亡くなるまでの間は徳島の久武館道場の柳生神影流免許巻は、柳生神影流第十世 久保義八郎、柳生神影流第十一世 久保勇の連署で出されていました。

すべてが順調に見えましたが、太平洋戦争の敗戦で大きく状況が変化します。

終戦後GHQの方針で大日本武徳会の解散や武道教育の禁止などで、久武館道場は存続の危機を迎えます。

武道に関することはすべて禁止となり、第三代館長 久保勇も旧制麻植中(現在の徳島県立川島高等学校)武道教授を解任され、農業を主に生活するようになります。

折しも武道が否定され沈黙の数年間が続いていましたが、全日本剣道連盟の発足に伴い武道ではなくスポーツとして剣道が復活します。

しかし、これは新たな火種を抱えておりました。

武徳会の解散により武道場の系統や流派の宗家を把握していた団体がなくなり、我こそ何々流正統なりと叫ぶ者が多く現れてしまう結果となりました。

初代館長 久保利雄の門下生は著名な剣道家が数多くいたため、久武館道場でもこのような問題が起き、新たな道場を新設し独立する者、さらには独自に系統を書き換え宗家を名乗り当家の柳生神影流免許巻を授ける者まで現れました。

ただ戦後の剣道連盟はそういうことには関与しない団体であり、本来仲裁を行う武徳会も解散して消滅していたため、新たにスポーツとしての剣道場の道を歩むしかありませんでした。

※終戦直後はGHQの政策で日本古来の武道が「悪」という風潮があり、武道に関する歴史はすべて否定されていました。

武徳会に関する資料も多く破棄され、武道場の系統や流派の宗家の資料もなくなり全国各地でこのような問題が起きたようです。

その後、久武館道場を切り盛りする傍ら石井中学校や高浦中学校の剣道部の設立に尽力し、自ら講師として生徒の指導を熱心に行います。

設立間もない高浦中学校講師時代と晩年の石井中学講師時代の写真

高浦中学校講師時代
石井中学講師時代

また自らも剣道や銃剣道で徳島県代表として全国大会に出場します。

銃剣道で徳島県代表として全国大会に出場した際の写真

銃剣道で徳島県を代表して全国大会に出場

古武道関係では、当家に伝わる柳生神影流を奉納演武する機会が数多くありました。

古武道関係者に招かれ当家に伝わる柳生神影流を奉納演武した際の写真

奉納演武

徳島県剣道連盟では、長年審議員や理事、相談役など重役を歴任し剣道連盟の発展に寄与します。

また徳島県銃剣道連盟でも長年審議員を務め、時代と共に規模が縮小していく銃剣道を当時のまま伝える希少な人物として一目置かれていました。

※剣道と居合道を兼ねる人は多くいたが、剣道と銃剣道の範士号を両方取得出来る人は希であった。

久武館道場第三代館長 久保勇がまとめた銃剣道の習得奥義

現在、銃剣道は自衛隊内だけの活動になりつつあるが、銃剣道の貴重な資料として評価は高い。

銃剣道の習得奥義1
銃剣道の習得奥義2
銃剣道の習得奥義3
銃剣道の習得奥義4

剣道関係以外の活動では、実直で誰にでも公平に接する人柄が評価され、長年徳島県選挙管理委員連合会勝名支部会長、石井町選挙管理委員会委員長、徳島県市町村選挙管理委員会連合会副会長など選挙関係の仕事を多くこなしておりました。

また戦時中に東京から久武館道場に疎開してきていた徳島県出身の漫画家・コンヒロシさんの手紙からも第三代館長 久保勇の暖かい人柄が伝わってきます。

徳島県出身の漫画家コンヒロシさんが第三代館長 久保勇が亡くなった際に送って頂いた絵と手紙

コンヒロシさんが送って頂いた絵と手紙

晩年は、高齢のために石井中学講師時代の教え子である、瀬部安美、佐藤修一の両先生に現場指導を任せ、自らは両先生と生徒たちの稽古を見ながら随時指導しておりました。

よく言っていた言葉は、「小学校の間は試合で勝つ事も大事じゃが正しい握り、正しい構え、正しい打ちが大事じゃ」であり、常に基本に忠実な剣道を指導しておりました。

晩年の様子(徳農剣道大会に於いて)

晩年の様子(徳農剣道大会に於いて)

平成2年4月8日に家族に見守られながら逝去。

葬儀には、久武館道場で剣道を学んだ県議会議員の桑内利男先生、徳島県剣道連盟会長の堀江幸夫先生が弔辞を捧げられ、数多くの人が、戦前の大日本武徳会から戦後の剣道連盟の成立、現在までの時代の移り変わりを知る人物の死を悼みました。

享年82歳。

柳生神影流第九世
剣道範士(大日本武徳会)
久武館道場初代館長

久保源次郎利雄
久保源次郎利雄の名前

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