第二代館長:久保義八郎
柳生神影流第十世
剣道教士(大日本武徳会)
久武館道場第二代館長
東京忠考館道場初代館長 久保義八郎
(明治22年12月6日~昭和24年12月9日)
明治期に剣の天才と謳われ、剣道の普及振興に尽力した柳生神影流久保源次郎利雄の長男。
明治22年12月6日に徳島縣名西郡浦庄村國實で生まれ、幼少の頃より博学才英で文武両道にすぐれ、父が明治38年に創した久武館道場(久保道場)にて、父の久保利雄や叔父である心形刀流 吉永勘平の厳しい修行を受け、柳生神影流の免許巻を授けられ継承し、柳生神影流第十世 久武館道場第二代館長となります。
また父と同じく武徳会より剣道教士に推薦され、その頃より地方での武道教育の限界を痛感し、自ら麻布獣医大学に留学卒業、さらに東京帝国大学法学部も卒業します。
東京帝国大学留学中に武徳会の要請で皇居の近衛兵の剣術指導中、のちに娘婿となる徳島県阿波市市場町出身の松村勇と知り合います。
松村勇の近衛師団銃剣道一位という実力に可能性を感じ長女の婿養子として迎え、徳島の久武館道場は父である久保利雄と娘婿の久保勇に任せ、自らの居を東京に移します。
東京に居を移してからは、麻布獣医大学教授や明治鉱業支配人、北海道留萠鉄道株式会社支配人などを歴任し、東京での社会的地位を築きます。
その人脈で東京徳島県人会の設立に尽力し初代副理事長を務めます。
※東京徳島県人会は、関東大震災時に、徳島県出身者が協力して被災者救済のために連絡を取り合い情報交換することで、非常に効果があったことが動機となり設立されました。当時の東京徳島県人会は現在と少し違い、東京で社会的地位を築き経済的に豊かな方しか入れなかった組織でした。
また東京道場として代々木上原に柳生神影流 東京忠考館道場を開設します。
柳生神影流 東京忠考館道場には当時親交のあった英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生が居合術教授として在籍していました。
館長の久保義八郎より山内豊健先生に柳生神影流を伝授し、山内豊健先生も東京忠考館道場にて、久保義八郎や門下生たちに英信流居合術を伝授しました。
久保義八郎の息子である久保仁や久保義信も山内豊健先生直伝で英信流居合術を伝授され、このご縁で徳島の久武館道場門下生は柳生神影流と英信流居合術の使い手が数多くいました。
館長の久保義八郎は自らの柳生神影流に在籍している居合道(英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生)や空手道(和道流空手道 流祖 大塚博紀先生)の当代一流といわれる先生方との親交を通して日本古来の武道の考えを学び直し、更に新しい柳生神影流を目指して いました。
※東京忠考館道場は、徳島の柳生神影流 久武館道場の東京道場としてスタートしましたが、和道流空手道 流祖 大塚博紀先生が和道流空手道を正式に立ち上げる前に一時期借り道場として滞在されたことや、英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生を居合術教授に迎えることで、剣道・居合道・空手道を営む総合的な武道場として姿を変えていきました。
東京中心部に有ったために太平洋戦争末期の激しい空襲を受けて東京忠考館道場やいろいろな資料は消失してしまいました。
掲載している写真は、東京忠考館道場から徳島の久武館道場に送られた写真を掲載しております。
※久武館道場に伝わる柳生神影流は、2020年3月号の武道雑誌「月刊秘伝」で紹介されてますが、全国各地に伝わっている柳生新陰流と異なる特徴的な動作が数多くあります。
まず「三学」とは異なる改良された基本動作があり、その基本動作を徹底的に覚えることから始まります。
その基本動作の中に久武館道場に伝承されている柳生神影流すべての意味が込められており、それが上達すれば自然と残りの形も習得できるようになっております。
館長の久保義八郎もその事に気づいており、徳島の柳生神影流をさらに生活の一部として身近に取り入れられるように考えていたと先代から伺っております。
東京忠考館道場の写真と練習風景 昭和10年7月21日
柳生神影流第十世 久保義八郎より英信流居合術十八代目
子爵 教士 山内豊健先生に柳生神影流を伝授し
発行した免許巻
※この写真は英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先のご子息である山内豊臣様から資料提供して頂き掲載させて頂いております。
英信流居合術十八代目
子爵 教士 山内豊健先生(1903~1946)
※この写真は 、英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生のご子息である山内豊臣様が、英信流居合術京都山内派に寄贈した写真のうちの一枚になります。
鎌倉の無双直伝英信流山内派碧水舎館長 石山政義先生のお口添えで、著作使用権がある英信流居合術 京都山内派 二十代目 山越正樹先生より快く提供して頂き掲載させて頂いております。
元華族、武道家 別名、鷹堂。
子爵・山内豊尹、勝の二男として明治36年8月16日、東京三河台町に生まれる。
山内容堂公の孫。少年期は高知に住み、海南中学校(小津高校)に進み、剣道と書道に秀でる。
その頃の大正5年に兄・豊陽、が隠居、子爵位を継ぐ。のちに上京。
9年には大日本武徳会から剣道錬士、柳生神影流の免許皆伝。
居合は江戸初期より山内家に伝わる無双直伝英信流から皆伝書が献上伝承される良き環境と17代目の大江正路子敬の熱心な指導で18代目を継ぐ。
戦前の名剣士の一人。京都の武道専門学校、善通寺師団を、東京の明武館、埼玉の正明中学校で指導する。
谷田佐一と共著の「図解居合詳説」はこの種の先駆け。弟子には河野兼光、三谷義里、井下經廣、宇野又二、がいて、孫弟子に山越正樹、木村幸比古、加茂治作らがいる。
書は三楽書道会、龍崎書道会の役員として活躍。
昭和10年に北海道出身の片石アサ子と結婚する。5子のうち長男・豐臣は札幌に住み、古流山内派の名誉会長、京都豊剣会の顧問である。
アサ子は戦後間もなく夫なきあとは北海道の婦人警官1号として勤務。
豊健は昭和21年1月病没。42歳。
墓は高知市筆山。
空手四大流派である「和道流」の 流祖 大塚博紀先生に、久保義八郎が和道流空手道を正式に立ち上げる前の数年間、自らの東京忠考館道場を仮道場として提供し、徳島に伝わる柳生神影流を伝授したことで和道流空手道が完成しており、和道流空手道の歴史書にも掲載されております。
以下は和道流空手道連盟の「和道流空手道」より一部抜粋したものです。
〈和道流の流名の経緯〉
昭和6年、東京代々木八幡にある柳生神影流の久保義八郎先生の道場を借りて、仮道場を開いた。
昭和9年、正式に大日本空手道振興倶楽部という道場を開設した。
同13年、大日本武徳会から錬士号を授与される。また、自身の流派名を神州和道流空手術とした。
日本武道の振興を巨的として、毎年京郡の武徳殿で武道祭が行われていた。
この武道祭が昭和13年だけは流祖祭として実施されることになったところが、空手には流祖がない。
そこで、研究を重ねてきた空手の流祖を、揚心流柔術遠租、秋山四郎兵衛義時とし、流名を神洲和道流空手術と考えた。
当時、道場としていた、新宿相木の自宅に来ていた、諸氏と相談し「神洲和道流空手術」の流名を届けた。
これが日本に於ける最初の空手の流名となった。
その後、流祖祭から戻ると、久保義八郎先生(柳生神影流)が「神洲」も「和」も「日本」を表すから、和道流だけにした方が良いとの助言があり、翌昭和十四年の武道祭には「和道流」として届け出た。
和道流空手道 流祖 大塚博紀先生
(明治25年6月1日~昭和57年1月29日)
※和道流空手道関係の写真は、和道流空手道 流祖 大塚博紀先生のご子息である、現在の和道流空手道連盟会長であり最高師範の二代宗家 大塚博紀先生から快く提供して頂いた写真を掲載させて頂いております。
和道流空手道は、流祖 大塚博紀先生が幼少より柔術諸流の稽古に励み、神道揚心流柔術第四世を継ぎ、その土台の上に琉球伝来の空手の長所を取り入れ、さらに当家に伝わる柳生神影流や富田流小太刀を組み入れ創った武道。
すなわち日本の武道の精を凝らしたものです。
空手道のイメージは「力」と思いがちですが、和道流空手道は体捌きも技も柔軟で、小さな動きが大きな効果を発揮できるように出来ています。
これは日本古来の武道には、少なからず共通していることを流祖 大塚博紀先生が諸流の稽古で感じ取り、その中で防御が受けではなく「流す」という特徴のある柳生神影流の剣捌きを組み入れたと伺っております。
また久保義八郎も流祖 大塚博紀先生から諸流の稽古で会得した奥義を伝授され、剣術と空手という方向は違えどもお互い共通した認識を持ち続け切磋琢磨していたと伝えられています。
現在でも和道流空手道 流祖 大塚博紀先生のご子息であり、和道流空手道連盟の会長である第二代宗家 大塚博紀先生とお話する機会がございますが、和道流空手道の上半身は久保義八郎が伝授した柳生神影流と富田流小太刀がベースになっており、特に柳生神影流の「流す」という特徴が和道流空手道の確立に大いに役立ったと申しておられました。
私ども久武館道場関係者が和道流空手道を拝見させて頂いても、刀がないだけで手の動きは非常に似ていると感じることが和道流空手道 流祖 大塚博紀先生と久保義八郎の親交を垣間見ることが出来ます。
流祖 大塚先生と二代宗家 大塚先生の立ち会い
※刀がないだけで、上半身の構えは徳島の柳生神影流と同じ構えになっています。
流祖 大塚博紀先生は生前によく空手の形はすべて「受け」から始まる。
だから空手は武術ではなく護身術だと言われていたそうです。
柳生神影流の「流す」という特徴が和道流空手道の手捌き、すなわち「受け」として採用されました。
武の道は ただあら事と な思ひそ 和の道極め 和を求む道
和道流流祖 大塚博紀
この流祖 大塚博紀先生の歌には和道流空手道の心が刻まれております。
体と共に心も鍛えるそれが武道であること。
激しい練習の辿り着くところは「神武不殺」の境地であり、和道流の「和」は、大和の心、すなわち武士道精神を表している。
その中で一番強いのは、「敬・愛・礼」の心、位だと言う意味が込められております。
その心によって人類・社会に貢献できる崇高な人格者を育成するのが和道流空手道の目的。
現在の和道流空手道連盟会長 二代宗家 大塚博紀先生もその事を平成25年3月1日発行の文藝春秋で述べられております。
大塚先生は空手道宗家の教えとして、「体とともに心も鍛える、それが武道だ」という題目の中で、試合に勝った時にガッツポーズをするようでは武道家とはいえません。
あれは、相手に対して失礼です。
負けた相手の悔しさ、悲しさを受け入れる心がなければ武道ではありませんと話され、また昭和の剣聖として有名な持田盛二先生の言葉を引用され、武道では「位」というものをよくいいます。
これは「心」と言い換えてもいい。
「位のある勝負をすると、一生観た人の心に感銘を与える」と相手に対する「敬・愛・礼」の心を述べられています。
流祖 大塚博紀先生と二代宗家 大塚次郎先生の海外講演時の写真
徳島の久武館道場にも代々受け継がれている「武士道精神」がございます。
その考えを第二代館長 久保義八郎は、東京忠考館道場の居合術教授として在籍していた、英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生やご縁のあった和道流空手道 流祖 大塚博紀先生との親交を通して、我が国古来固有の武道理念の共通性を熟知し、それには古来より続く武士道の考えが底辺にあると感じ、久保義八郎著書として昭和9年に農民社より「忠考の大道」を出版し、昭和19年には鶴書房より大道寺友山著の大義武士道訓を編著し、「大義武士道訓:五十六箇条武道初心集」を出版します。
久保義八郎が出版した「忠考の大道」と
「大義武士道訓:五十六箇条武道初心集」
「正月元旦の朝、雑煮餅を祝うとて、箸をとり始むるより、大晦日の夕べに至るまで、日々夜々、死を常に心に充つるをもって、本意の第一とはつかまつるにて候」と書かれており、死の覚悟さえあれば正しい人生目標を立てることができ、緊張感を持つことは時間意識を常に持ち続け、怪我や病気を遠ざけるという人生訓がある。
※第二代館長 久保義八郎が昭和19年に鶴書房より大道寺友山著の大義武士道訓を編著し出版した「大義武士道訓:五十六箇条武道初心集」より一部抜粋
※キリスト教の影響を受けた新渡戸稲造の武士道とは違い、久保義八郎は江戸時代の太平の世の武士道である「葉隠」や「大義武士道訓」を参考に当時の日常生活に生かせるように著書しました。
※忠孝の道 忠とは主君に対する忠義であり、孝とは親に対する孝行のことで、この両者を全うすることを武士道の根本の徳義としました。
いわば忠孝の道とは、君父に対して私心なく誠を尽くす報恩の行為であり、人間として最も美しい無私の精神・無償の奉仕の表れといえる。
その後、故郷の徳島縣護國神社には東京忠孝館道場と久武館道場の連名で太刀(来國俊作 白鞘三尺三寸)を昭和14年9月吉日に奉献し、阿波神社(徳島)には昭和18年2月18日に大日本忠孝館道場名で自らと居合術教授である英信流居合術十八代目 子爵 教士 山内豊健先生と二人で太刀を奉献します。
徳島縣護國神社に太刀を奉献した際の写真
※徳島縣護國神社への太刀奉献の様子は当時の徳島新聞の一面に掲載されました。
太刀を持つ久保義八郎と写真中央、叔父の心形刀流 吉永勘平氏(紋付袴姿)。
※現在の神主さんにお話を伺うと、徳島縣護國神社は現在の場所ではなく、眉山の中腹に有ったため太平洋戦争末期の激しい空襲に遭い、残念ながら本殿共々奉献した太刀も焼失したと伺っているそうです。
ただ神主さんが代わっても太刀奉献の話は代々語り伝えられているそうです。
徳島新聞の一面に掲載された写真
阿波神社(徳島県鳴門市)に太刀を奉献した際の写真
※東京忠考館道場は太平洋戦争末期には「大日本忠考館道場」と名前を変更しておりました。
掲載した写真は東京代々木上原の大日本忠考館道場前で撮った記念写真になります。
※阿波神社(徳島県鳴門市)へ太刀を奉献した際には、久保義八郎をはじめ居合術教授である山内豊健先生や大日本忠考館道場関係者が徳島の久武館道場に滞在し、、山内豊健先生自ら久武館道場関係者に英信流居合術を授けられました。
大日本忠考館道場関係者が徳島の久武館道場に滞在している間は、「偉い先生が東京からやってきたと」言って徳島県内だけではなく遠くの香川県や高知県から各流派の武道家が訪れ、小さな町がひっくり返るほどの人が溢れ、久保義八郎や山内豊健先生も帰京の予定を遅らせるほどの盛況ぶりだったと伺っております。
※現在の阿波神社の神主さんも当時の事を覚えておられ、大日本忠考館道場をはじめ久保義八郎や山内豊健先生を懐かしんでおられました。
残念なら奉献した太刀はGHQの政策で刀剣類は没収されてしまい現在は無いそうです。
昭和18年5月吉日には、久武館道場第三代館長 久保勇を自らの正統な後継者として認め、柳生神影流免許巻を発行し柳生神影流第十一世を名乗ることを許可します。
柳生神影流第十世 久保義八郎が久武館道場 第三代館長 久保勇を正統な後継者として認め発行した柳生神影流免許巻
太平洋戦争末期には敗戦色が強くなるなか、自らの政治力や人脈を生かし物資不足の解消に務め、徳島県出身者の戦地での安否情報の確認、東京在住の徳島県出身者の疎開の手配などで奔走します。
当時、久武館道場に疎開してきていた徳島県出身の漫画家 コンヒロシさんの手配も久保義八郎が行いました。
※当時の久保義八郎は東大時代の人脈を生かし、東京でかなりの政治力や人脈を持っていました。
それを故郷・徳島のために奉仕する機会があったことが、後の衆議院選挙出馬動機になったようです。
太平洋戦争末期当時 仲間との写真
※昭和19年2月10日 水交社に於いて 高橋耕一大佐を語る第五十六期生 山本五十六元帥の書を掲く
前方(右・野村了介、中央右・久保義八郎、中央左・橋口 喬、左・宮本蔦雄)
後方(右・森永健三、左・久住忠男)
戦後、新しい国を創ろうと東京徳島県人会の仲間が故郷を地盤に国政に参画するのに触発され、第22回衆議院議員選挙徳島選挙区に出馬します。
善戦されたようですがあと一歩のところで涙したそうです。
久保義八郎が出馬した第22回衆議院選挙の様子
※久保義八郎が出馬した第22回衆議院選挙徳島選挙区には、三木武夫元首相をはじめ県内でも名だたる名士が出馬しておりました。
衆議院選挙出馬当時、東京での久保義八郎の評価は非常に高かったのですが、東京暮らしが長かったために徳島では知名度が少し劣ること、地元徳島で絶対的な存在だった父である久保利雄が昭和8年に亡くなっていたこと、大日本武徳会が解散しており組織力を十分に発揮できなかったことが敗因と考えられます。
その後も国政や自らが設立した忠考奨学会を通じて優秀な学生の育成、評議員を務めていた東京阿淡育武会を通じて徳島の武道発展や後身の指導に意欲を見せますが、昭和24年12月9日慶応大学病院にて亡くなります。
妻との間には二男八女の子宝に恵まれ、慶大病院での担当医師は次男の岸上(久保)義信氏であり、六女の久保忠子(なおこ)さんは女優の久保菜穂子さんである。
享年61歳。
昭和40年11月3日石井町発行の浦庄村史では、久保義八郎は次のように紹介されています。
久保義八郎
明治二十二年十二月六日、国実の久保利雄氏の長男として生まれた。
小学校卒業後、村役場書記・小学校代用教員を務め、明治三十六年十六才で、第二琴平丸事務見習いとして乗船、日露戦役勃発するや同船は軍の輸送船となり御用船として従軍、最年少であった。
明治四十二年上京して麻布獣医学校に入学し、苦学して同四十五年三月首位で卒業した。
さらに独力第七高等学校・東京帝国大学法学部を卒業し、法学士・経済学士・獣医学士を得、善通寺第十一師団野砲兵第十一聯隊に入営、獣医少尉となった。
剣道は父の訓化を受け柳生神影流十代目を継ぎ、また長谷川英信流居合術・空手道 を極めた。
氏は、性質明朗活発で、大胆沈着、常に天下の大勢を論じた。大正十三年三十六才で衆議院議員に立候補し、強豪生田和平氏に下り、昭和二十一年四月再度立候補したが、また二代目生田宏一氏に惜敗した。
さきに国旗忠考会を組織して会長となり、大日本忠考館創道場を開いて館長となり、青年を鼓舞鞭撻し、また忠考奨学会の理事長となり学生に奨学金を出し、優秀な学生を養生した。
明確な頭脳を有し、明治鉱業・北海道留萠鉄道株式会社の支配人となり、多年の功績を残して退職し、その後各名誉職を歴任したが、昭和二十四年十二月九日惜しい哉六十一歳で病没した。
昭和56年1月15日に徳島新聞社が発行した徳島県百科事典では、久保義八郎は次のように紹介されています。
1889年12・6~1949年12・9(明治22~昭和24)剣道家。
徳島県名西郡浦庄村(石井町)の人。久保利雄の長男。1912年(大正1)麻布獣医学校卒業。
さらに第七高等学校から東京帝国大学法学部を卒業。
剣道は柳生神影流を修め、居合道・空手道も奥義を究めた。
のち東京に大日本忠孝館道場を開き館長となる。
明治鉱業、留萌鉄道会社に入るなど実業界の経験もあり、また政界入りを志して郷里から衆議院議員選挙に2度立候補したが、ついに当選を果たせなかった。