久武館道場の教え
〈徳島の剣術〉 柳生神影流に隠された教えとは
現在の久武館道場 当主である戸村博史は、幼稚園年少の頃より祖父である第三代館長 久保勇によって現在の剣道と柳生神影流を教わりました。
今になって感じることは、この徳島の久武館道場は単に剣術を学ぶ場所ではなく、剣を通じて心や人格を育成する事に重きを置いていました。
これは徳島の柳生新陰流である「柳生神影流」が大きく関係しています。
柳生神影流の流祖である柳生宗矩公は、一剣術流派である柳生新陰流を徳川将軍家御流儀まで覚醒させ、徳川幕府の初代大目付に就任、唯一大名に列せられた剣術家です。
柳生宗矩公が徳川将軍家剣術指南役まで上り詰めることができたのは、戦国時代までの剣術は戦の道具としての側面が強く、太平の世では無用の長物になりかねない剣術を、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの新たな兵法思想を提案し、太平の世での剣術のあり方を確立したからです。
久武館道場の柳生神影流は、安土桃山時代に柳生宗矩公の側近である木村郷右ヱ門尉義邦によって徳島に伝えられました。この柳生宗矩公の教えを最も受け継いだ剣術流派と言えます。
人を活かす剣
初代館長 久保源次郎利雄は、明治22年に徳川将軍家御流儀の流れをくむ柳生神影流免許巻を授けられたのち、剣術のすばらしさ以上にその奥底に隠されている「活人剣」などの教えが非常に重要であることを感じ、佐賀や福岡を中心に九州で数々の武者修行を行い、両県で自らの道場を十五開設しました。
それは久武館の柳生神影流は「陰」ではなく九州系統である「影」という事、九州には熊本藩、三池藩、佐賀藩に新陰流が御流儀として採用され、特に佐賀藩では山本常朝の「葉隠」に代表されるように武士道の考えが底辺にありその教えを学びたかったと伺っております。
武士道
武士道と言えば、武士独自の価値観と考えがちですが、第二代館長の久保義八郎の著書にも書かれていますように人としての「名誉主義」が基本になっています。
それはどんなに困難な状況であっても、最後まで矜持を保ち、あきらめることなく頑張る姿勢のことであり、死を意識することで日常生活を無為に過ごさず有意義に過ごせることを説いています。
これは日常生活を送る中で、常に自分の置かれている状況を把握することで、無駄な争いをせず時間を有効に使い、いわば自分に与えられた人生という時間を最大限有効に使うという教えでした。
「正月元旦の朝、雑煮餅を祝うとて、箸をとり始むるより、大晦日の夕べに至るまで、日々夜々、死を常に心に充つるをもって、本意の第一とはつかまつるにて候」と書かれており、死の覚悟さえあれば正しい人生目標を立てることができ、緊張感を持つことは時間意識を常に持ち続け、怪我や病気を遠ざけるという人生訓を現しています。
※第二代館長 久保義八郎が昭和19年に鶴書房より大道寺友山著の大義武士道訓を編著し出版した「大義武士道訓:五十六箇条武道初心集」より一部抜粋
〈徳島の剣術〉柳生神影流は、非常に静かな剣
「剣は単なる武道ではなく人を生かし育てるもの」私共の柳生神影流は非常に静かな剣です。例えるなら大自然に水が流れるがごとく無駄のない剣術です。日常生活で無駄な力を抜き生活することは、長い人生を通して非常に有効な糧になります。これは常に死を意識することで自分に与えられた状況を理解し、人生という時間を無駄に過ごさず有効に使うという教えです。また柳生神影流は徳島に伝承されてから独自に変化を遂げました。それは徳島の人々が流祖の教えや成立背景を理解し、その時代に合わせながら長い時間をかけて改良された結果、他の剣術流派には見られない「相手の攻撃を流し、その力を利用した瞬殺の動作」に繋がっています。
また柳生神影流の剣術修練には、五行や八徳の教えが隠されており、それを無意識のうちに習得することは、個々の人生の大きな羅針盤となり、どんな困難な状況でも乗り越える力を自然に身につけるようになっています。
この教えは地元徳島の方にも受け入れられ、戦後、徳島藩御流儀である貫心流をはじめ多くの流派が失伝するなか、令和の現在でも守り続けられ、県主催の講演会や公立幼稚園古武道体験会を開催するなど脈々と後世に受け継げられています。